昭和51年06月27日 朝の御理解
御神訓一つ
「神は我が本体の親ぞ。信心は親に孝行するも同じ事。」
それから御理解29節を頂きましたから、その御神訓と御理解を中から御理解を頂こうと思います。
御神訓 一、
「神は我が本体の親ぞ。信心は親に孝行するも同じ事。」
御理解 第29節
「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労してるから長ごう散らぬ。」
信心は親に孝行するも同じ事。それは神はわが本体の親だからであります。信心は親に孝行するも同じ事なんです。それは神はわが本体の親だからであります。お道の信心によって初めて、私共にそういう親があると言う事が分かる、だから天地と私共は同んなじ物を持っている、大天地に対する小天地とも。大神霊に対する小神霊とも言われる訳であります。言うならば天地金乃神の親神様であると同時に、氏子である言う事であります。だからそこんところの信心を、まぁ説明すると。まぁ大変長くなると思いますね。
神は我が本体の親と言った様な事を、今日はそうではなくてね、今日私が頂く御理解の29節桜の花の信心と、梅の花の信心と言うあのう御理解がどういう関わり合いを持っておるかと言う様な事を、まぁ探ってみたいと思います。突然の事ですから別に関わり合いは無い様にあるんですけれども、まぁそう言う様な風に頂いて頂こうと思うんです。そこでですなら私共がこうやって信心を頂いておりますけれども、なら果たして親に孝行するも同じ事と言う様な、信心になっておるかどうかと言う事でございます。
そこで桜の花の信心を、まぁ言うなら親孝行ではない信心として聞いて頂く、梅の花の信心を親孝行の信心と言う風に聞いて頂く。ここにひとつ昨日一昨日の御理解を頂いて、皆んな先生方で研修を致します。時に伊藤君が纏めております。昨日一昨日の纏めがありますから読んでみます。昨日萩の市川さんがお参りになって、これを聞かれて始め先生もう七十幾つにもなって、何十年間の言うなら若い時からの信心を頂いて、言うなら萩の信徒会長までさせて頂いておるけれども、一向信心が分かりません進みません。
どういう信心させて頂いたならば、信心が分り又は本当にお徳の受けられる、おかげの受けられる信心になるだろうか、と言うお伺いがありました。それで私はこの伊藤君が書いております、これを伊藤君に読んで貰いました。もうほとほと関心して、もう本当これではおかげ、けれども私がもし二十歳時代にこう言う様な信心が分かっておったら、今頃は金光様の先生になっとったでしょうと言うてから、言うておられました。何十年させて頂いてもおかげがひとつも進展してない。
または同時にそれからと言うて、おかげは一杯頂いておると言うんですね。何十年間信心してとるから、けれども信心が金光教のひと通りの事は、まぁ質問でも受けりゃ説明が出来るけにくらいと解っておるけれども、言うならば今日のなら御理解で言うならば、桜の花の信心は分かっておったけれども、梅の花の信心が分かっていなっかった。おかげを頂くと言う事の信心は、分かっておったけれども、お徳を受けて行くと言う信心が、分かっていなかったと言う訳であります。
だから市川さんをして、そのようにまぁ思わせた位の言わば纏めですから、どうぞ皆さんも聴いて下さい、皆さんも知っておる事です。けども中々こんな風に要領よう纏め切らんのです。そして改めてはぁ成る程今の金光教の芯、昨日今日来られましたが、これが今の金光教の信心の最高のところでしょう。まぁ例えば市川さん当りが知っておられる、又おかげを受けてきておられるのが最高のおかげで、また知っとると言う事は金光教の今の信心だろうと。
これに合楽の信心が本当に加わって来た時に、始めてお徳の世界と言うか、本当な信心天地金乃神、今日の御理解で言うならば、信心は親に孝行するも同じ事と言う信心、ですから信心は頂いておっても、ここに伊藤君の発表の中にありますが、今までは神様からおかげをむしり取るような、無理にどうぞどうぞと言うてお願いをすりゃ、試験の時には試験が思いがけなくよかった、どんな願い事させて貰うて御取次ぎを頂くと、御理解を頂いて御理解を実行すると、確かにおかげを頂いたけれどもと。
言う事が出てきますけれどもです、お互いがねおかげを頂きたいと言うならそれでいいですけれども、おかげをこれは桜の花信心と同じ事ですから、おかげは必ず散ります。どんなにおかげを頂いた、そりゃ人のたまがるような奇跡的なおかげを頂いた。例えばならその市川さんのようにね、合楽にご神縁を頂いてない筈の命を助けて頂いた、胃癌と言う病気を手術もせずおかげを頂いた。お願いをしてその次に医者に行って、レントゲンにかかった時には胃癌がなかった。
しかも年々こうして健康のおかげを頂いておる、だからそういう例えばおかげならば、おかげを何十年間もういわば頂き続けてきた。けれどもそういうおかげの虚しさ、自分が死んだらどうなるだろうか。あの世に持って行けるものがあるだろうか、この世にも残して行けるというものがあるだろうか、ない事に気がついてそれこそ愕然とする、何十年信心頂いて来ておって、どうした事じゃろうかと、なら皆さんでもですがっかりするような内容にひとつ本気で信心を身につけよう、信心を頂こうと言う事にならなければいけんと言う事です。
それには信心は親に孝行するも同じ事と、言う信心でなからなければ、また教祖の神様が御出現遊ばされて、天地金乃神様のおかげ、ご神徳をお取次ぎ下さると言う事は、氏子信心して、おかげを受けてくれよと言うものは頂いたけれども。またぱぁと散ってしまったと言う様なおかげを頂いてくれとは、仰ってはなのです。いつ何時までも子にも孫にも伝えていけれる、自分はあの世にまでも持って行けれる、と言う程しのおかげを受けてくれよなんです。
読んでみましょう、私が難しい字が書いてあるから、読み切るかどうか分かりませんけれどもね、まぁ昭和51年6月25日、御理解 第58節、研修会と、私の東京での10年間の信心は、おかげ信心のおかげ信心と、只々親を喜ばせたいばっかりの信心、おかげ頂くだけの、テクニックを体得した、市川さんが言われるのは、何十年間信心をさせて頂いてです、おかげを頂くところの言うならば、要領と言うか、言わばテクニックだけは、覚えて来た。
東京に行っておってもあちらのあんたはね学校に行く、近所の教会はあるだろうから、教会には参んなさいよ、参んなさいよと言うから、まぁ親に孝行すると言うごたる気持ちでお参りをした。そして十年間金光教の言うならば全てを、まぁマスターしたように思うておった。言うならばおかげを頂くところのテクニックだけは覚えた、いわゆるおかげを頂くところの技術のようなものは覚えた。
けれども言わば10年間信心させて頂いて、そのおかげの信心の空しさに始めていわゆる愕然とした。早く気が付いたと言う、そこに合楽との言わば結合、血縁と言う事になる訳ですね。例えば親の為に一心を立てれば、少々無理な願いでも驚くほど早く頂ける事も知ったし、下宿の家に入る前に家を拝む、どう言う結果になるか、家に上がる前に下駄を揃えて揃えさせて頂くと、どういう結果になるか、職場で嫌いな人の幸せを願えば、会社の発展を願えば、教会の御用をさせて頂けば。
日参を10年続けると、どのような気持ちになるか、難しい試験に受かる為にはどうすればよいか、それらを行じた結果私なりに分からせて頂いた。そして10年経って人からは羨ましがられる程に、全ての事柄に花を咲かせて頂いたし、教会の先生からは若いがゆえに将来を期待された。もうサラリーマンは実業家と違って、サラリーの範囲をなんと言うか、おかげのおかげは頂けないと言う様な、あっサラリーの範囲を超えても、おかげは頂けないと言う様な事は、間違った観念である事を悟ったから。
これから先もこのような信心で進めば、なんとかおかげ頂いていけそうな、自信のようなもの得た、言わば表行と心行の中間的なもので、心行のいくらかを形に現しただけの信心である。「形の信心でも神様はおかげを下さる」。カッコをしてあります。しかしどうした事だろうか、これから先もまた、おかげ頂く為にだけ一つ一つの事柄を、これまで同様に心と体の最低の動力と能力で、最大の効果を得る為に、神様の弱いところを突くような技巧を凝らし。
おかげを神様からむしり取って進むのだと思うと、筆舌には尽くしがたい、侘しさ空しさ親に対する申し訳なさを感じた。信心とは何故にこんなにもしんどいであろうか、何かが間違っている、本当の道を知りたい本当な道が、そんな時合楽の成り行きを大切にと言う言葉が耳に響いた。足元から鳥がたつ思いとはまさにこの事、これならば間違いない気張る必要もない、無理がなさそうだ。いや今の自分にはこれしかないのだ。
もうおかげ信心の一切にさよならをしよう、さようならをしてか、神様からの信用の蓄積を頂き、神徳に触れられる信心に切り替えさせて頂こう。とあるわけ。どうだったでしょうか。もう今の金光教の全てと言うてもよい感じが致しますですね。だから今のこれがまぁ殆どのまぁ信心を頂いておる者の全てであるとするならば、ならもう金光教ではこれまでで、ならお徳の世界と言う様な事は、もうとてもとても難しいと言う事になります。そこに空しさを感じたんです。
だからんならいとこが10年間してきた信心を桜の花の信心。これならばどんなに頂いても必ず散ると言う事であります。だから信心しておっても神様から、おかげをむしりとると言うテクニックを覚えただけでは、これは親孝行とは言いません。そりゃ確かに親のものは子のもの、そんなら子のものもまた親のものでなからなければいけんのです。そしてそこにです、今迄の言うならば、おかげの頂けれるテクニックと言った様なものを、覚えて行くと言うものでなくて。
どう言う様な信心すりゃおかげ頂くじゃろかと言う人は、必ずならおかげを頂くテクニックを求めておるのです。確かにテクニックがあるですコツがあるです。けどもいかにコツを覚えておかげを受けてです、言うならば神様をだまくらかすごとある手もあるです、しかしこれでは、いわゆる神様が願うておられる、どうぞ氏子信心して、おかげを受けてくれよと。神はわが本体の親ぞ、信心は親に孝行すれも同じ事、信心しとれば親孝行かと言うとです。
神はわが本体の親ぞと言うところを、本当にわきまえず、そこをふん舞えての信心でない限りです、いわゆる親からおかげをむしり取るような、おかげの世界だけしか分かりません。それを今日は桜の花の信心と言うふうに聞いて頂いたわけです。そしてならこれから、まだここに修行に参りまして1と月しかなりません、けれどもそこんところに気付かせて頂いてね、いよいよ成り行きを大切にすると言った様な事がです。それを聞いた時に、まさに足元から鳥が立ったような思いであったと。
それこそビックリする思いでこの教えに感動した訳です。
そこから梅の花の信心が生まれてくると言うわけです。どのような場合どのような事柄であっても、神様が私に求めたもうところのそれが修行であるなら、それこそそれを拝んで頂くいわゆる信心の養素、その信心の養素をうると言う事は拝山、言うなら山を拝む以外ないと言う様な事が段々わかってきた、しかもそこには気張ると言う事がない。無理がないただ日々を、あげな修行をしようこげな修行をしようじゃない、日々起きて来るその自体そのものと、真剣に忠実に取り組んで行くと言う事だけですから。
気張るとこがない訳です。そういう信心をです言うなら本気で頂こうと気がついた、昨日市川さんが言われる私共は、どげな信心をすりゃおかげ頂けるじゃろか、をばっかり思うていわゆるいろんなテクニックを覚えてきた、けどもどういう信心をすれば、お徳が受けられるじゃろかと言う信心をして来なかった、またそれを教えられる事もなかった、いやそれは金光様の信心をさせてもらえばです、特にお道の教師でも志ざせばです、もうやっぱりご神徳を受けたいと言う気持ちは誰にでもあります。
だから様々な水をかぶってみたり、断食をしてみたり、一生懸命日参をしてみたりしてです、ご神徳と言うものが受けられるもんならばと、一応は私は精進した人達ばっかりだと、金光様の信心でもそうです。少し熱心な信心になってくるならばです、やはりお徳を受けにゃ、お徳を受けにゃ分かると思うんです。けれどもどういう信心をすれば、お徳を受けられるかと言う事は、まだ極めていない訳です、そんな表行的な信心じゃいかん、言うならばそういう意味においてです。
なら伊藤さんがここで発表しとりますように、表行と心行の相中的なところまでは頂いておるのです。言うならばおかげも頂きたい、信心も頂きたいおかげ頂きたいと言うのが、胸んなか腹んなかに一杯あってから。例えばお話頂いとりますから、入るとはチョッコットばっかりしか入りよらん、始めからです根底から、いわば信心は親孝行するも同じ事ぞや、その神様が喜んで下さる、親孝行を喜んで下さらない筈はないからね、神様が喜んで下さるような、親孝行の信心とはどういう信心なのかと。
言う事を頂きたいと言う信心姿勢を持ってです、今合楽で解かれておる、言うならばその成り行きを大切にすると言う事だけでも、本気で極めて行こうとすると、無理のない実にすんなりと、御神徳の世界に入って行けそうな気がする。と言うところに言わば、伊藤君の夢膨らませての今修行があっておる訳でございます。そう言う事になってまいりますと、最近はですね神様から次々とお知らせを頂くんです。
しかもやっぱ言うなら色んな最高の学問身につけとりますから、もう私共では合点のいかない難しい言葉で頂くです。字引を引いてみると素晴らしいです、それから外国語が出来るでしょう、イタリー語やドイツ語で頂くです、それが私が説いた、私が解いたのでは少しまだ言葉が足りないと言ったものは、ドイツ語にはあたりめと、はっきり出て来るんです。はぁもうまぁ一押し何かいわんなければ、この言葉が足りないなぁと言うところで、イタリー語で頂きますと、スッキリ出て来るんです。
と言う様にですね。例えば仏教のテンキをする人達が、あの文語の勉強をするのと同じです、合楽の信心を本気でマスターしようと思ったら、先ず合楽語を覚えなきゃ駄目です。だから合楽辞典と言った様なものを作りたいと言って、西岡先生は言ってるくらいです。これはまぁいよいよ極めて行こうとすれば、そういう事になりましょうけれども、今日私は桜の花の信心と言うのを、言うなら伊藤君が十年間してきた信心を、桜の花の信心と言うふうに聞いて頂いた。
そして1と月あまりではあるけれど、本気で修行させて頂いとる。現在の信心がもし信心辛抱し抜かれて、ひとつの花が咲き実った時には、それはもうあの世にも持って行け、この世にも残しておけると言う程しの、今日は梅の花の信心になってるんだと言う風に聞いて頂いた。そういう梅の花の信心を目指さして、頂いてこそ始めて親に孝行するも同じ事ぞや、と言う事になるのじゃないでしょうかね。
どうぞ。